- 2016.12.31 Saturday
「剣道とイラストレーションの共通点としての「ため」(「星座」誌 かまくら春秋社 2015年寄稿)
「ためがたりない。もう少しためて。」とは剣道の先生(以降剣師)の言葉。ぼくにとって「ため」はイラストレーションの仕事と、28年間続けてきた剣道の両方に必要不可欠で人生を左右するくらい大切な言葉だ。
ここでいう「ため」は漢字では「貯め」ではなく「溜め」の意味になる。ただし漢字の「溜め」よりも言葉で発せられる「ため」はもう少し広義でひらがなの方がイメージに近い。それは自分の中で空間、時間的に溜めるだけではなく精神的なものでもあり、相手とのかねあいの中にある抽象的な「ため」だからなのだと思う。剣道六段審査を前に課題とされた「ため」。これは物理的には相手を動かして機会を捉えることを意味し、精神的には剣尖を交え合気になった互いの心と体が(静)から(動)へ移行するまでの間に打ちたいと急く気持ちを我慢するということになる。その「ため」を時間で言うと数秒でも数十秒でもあるし、外見はぴたりと静止していることもあれば足や剣尖は目まぐるしく動いている最中であったりもする。八段の剣師には万事言動にもためがある。小さな子供には簡単な言葉と静かな口調でゆっくりと話す。すると子供たちはしんとして聞く。声を荒げることはない。剣師の指導をようやく発揮できた六段審査では一分間の立会い二回でたった八本しか打ちを出さなかったが打突の機会を捉え合格した。幸いにして「ため」の本質の片鱗を見た気がした。幾度も無様な立ち合いをして不合格を重ねた末のことである。
「剣道家でイラストレーターとは相反していて意外だね。」と言われることがあるが共通点は多いと思っている。ぼくは日大芸術学部デザイン学科でイラストレーションの大家である安西水丸(故人)に邂逅しイラストレーターを志すことになる。安西師には沢山の大切な言葉を頂いたが、一番印象に残っているのは恥ずかしながら失恋についての言葉だ。意中の人について相談しようとするや否や安西師が矢のように鋭く、それでいて静かな優しい口調で放たれた言葉はこうだ「今君がやるべきことは花束やプレゼントを渡して口説くことではなくただ黙々と自分の才能を磨くことだ。そうすれば引く手あまたで向こうから寄ってくるものだよ。」安西師のイラストレーションは柔らかくゆるやかで見る者に(誰にでも描けるのではないか)という錯覚を与えることがある。それは剣師と同じ意味での「ため」があるからだ。イラストレーションにおける「ため」は見る側からも絵の中に容易に入り込める隙(親しみやすさ)があることであり、それは誌面の世界観に引き込まれることと同義だ。安西師は「与えられた制約をいかにクリアするかがこの仕事の楽しさ」と語られる通りあらゆるジャンルの誌面と合気になり膨大な秀作を遺した。
齢60歳を越える剣師の構えにはゆとりがあり動きは柔らかい。隙があるように見えて安易に打ち込めばぴしゃりと返される。一見静かだが稽古を積んだ者であれば隙どころか周到な備えと気迫の凄まじさを感じ取り居つくか引き出される。安西師の絵も同様で絵面だけならある程度真似出来てもいざ案件を目の当たりにすれば上手く描こうと力み自由な柔らかい線とは似ても似つかぬ駄作となる。安西師の絵を「ヘタウマ」と呼称するむきもあるがこれは観客に対する師一流のユーモアと懐の深さであり本質は(至高のセンスによる周到に計画された構成力と、脱力の極致)くらいに理解できなければろくな描き手にはなれないとぼくは思う。
両師ともに圧倒的な経験値に裏打ちされた「ため」が研ぎ澄まされた先端に集中している。高峰に鎮座する両師に及ばずながら近づくためにぼくはまず日常から「ため」を実践する。例えばBARで同席した魅力的な女性をあえて口説かずに帰るというような。「それはためではなく女を知らないからだよ目黒は」と天国の安西師に笑われるかもしれないけれど。