本日発売の栄養と料理4月号。巻頭イラストレーションは桜並木を描きました。是非ご覧ください。

描いていて楽しいのはいかにテキストと絵を自然に一体化させるかを考えることと「引き」の構図の試み。それと優しくて素敵な編集長。




劇団大人の麦茶第22回公演「その贈りものの酒は封があいていた」(於ザ・スズナリ5月11日〜15日)

広告を制作。念願の演劇関係の仕事。ご依頼頂いた脚本家の塩田泰造氏から芝居のポイント、シチュエーションなどをヒアリングし役者さん一人ひとりの資料を調べた。浅草ホッピー通りをモチーフに人情味あるお話しに合わせた似顔絵になっている。

イラストレーションの仕事は長大なストーリーをワンビジュアルに集約し象徴することにあり、似顔絵は配役の内面的特徴を反映させることに重きを置いて、実際に似ている云々は二の次になる。役者も演じる役どころに応じて全く異なる表情を見せる。

上演が楽しみだ。



【出演告知】

3月2日水曜日23時〜翌1時、フジテレビのWEBテレビ ホウドウキョク http://www.houdoukyoku.jp/sp/
の番組「真夜中のニャーゴ」 http://tv1.nottv.jp/news/houdoukyoku24/ に歌人の枡野浩一さんと出演します。

お時間あれば是非ご覧頂ければ幸いです。

普段は歌人の加藤千恵さん、芥川賞作家の羽田圭介さんが出演されている番組で今回はお二人の代わりに(普段もよく出演される)枡野さんと二人で生放送です。
枡野さんと制作中の絵本の話や短歌、本についてトークします。枡野さんの著書ショートソング、恩師でもある安西水丸さんの著書や思い出についても。


(以下枡野浩一さんのTweetより)

【近況】#ニャーゴ水「真夜中のニャーゴ」3/2(水)は加藤千恵さん羽田圭介さんが二人ともお休みという異常事態で、私が番組を乗っ取ることにしました。一緒に絵本を制作中の目黒雅也@masayameguro さんと二人で、小説や絵本について話します。付け句も紹介!(枡野浩一)

【近況】目黒雅也さんは元 #詩人歌人と植田マコト、現 #すっきりソング の詩人・本田まさゆきの元同居人。剣道の先生でもあります。目黒さんの師にあたる安西水丸さんの小説『70パーセントの青空』と拙著『#ショートソング』が課題本ですが、両者にはつながりがあります。(枡野浩一)





栄養と料理3月号、巻頭エッセイのイラストレーション連載にひまわりの絵を描いた。



ひまわりは春の花。人の心を明るくさせてくれる時にはアスファルトをも貫く
気丈な花でもある。ハングリーささえある黄色い明るい花のような女性を知っている。それはぼくが29歳の頃に出会った定年の近い老教師だった。ぼくが剣道の指導員をしている中学が荒れたことが原因で区の教育委員会から依頼を受けて教員免許を持たないぼくは特別枠の学校付き生活指導員となったときの話。朝から教員と同じように勤務し、事件のない時は自分の仕事を持ち込むことも許された。
このときの経験はぼくの仕事に大きく影響を受けた経験でもあり、プロフェッショナルということについて考えさせられたし、長く剣道で身につけたことも大きく身を助けてくれた出来事だった。全てを書けばまだまだ長くなるが過去の文面を引用するに留めて、いつかもっと書くことも出てくるかもしれない。
「伝説の教師」は言い過ぎだが実際に当時は地域や教育委員会からもわりと知られた(素人)だった。過去の文面は多少未熟な部分もあるが手直しせずに転載してみる。興味あるかたはご一読頂ければ幸いです。


以下過去の文面を引用



テレビドラマではない本当の教師との出会いは、僕の人生を変えてくれた出会いのひとつでした。僕が荒れた学級の指導員をしていた頃、途中からきたベテラン女性教師が立て直しの総指揮をとりました。彼女は私も含めた教員達みんなに役割を与えて、それまでばらばらだった教員の体制を整えました。彼女は大人の側にまず

越えるべきハードルを沢山設けました。

 「大人たちのチームワークにかかっている。大人たちさえあきらめず、子供たちに向かい合えば子供たちはこちらを向いてくれる。」

ということを常に語っておられました。春、三月、荒れたあいつらが二年生になる直前の三月末、彼女から電話がありました。

 「目黒さんの力を貸して欲しい」

僕は思わず微笑みました。嬉しくて。あのおばさん(失礼)と一緒に仕事できるのか。僕ははじめから彼女は他の教員とはちょっと

違う、と思っていたのです。ちょっと悪(ワル)の匂いがする。毒の分かりそうな方。

 そして初日、「いきなり厳しいのはやめようね。まずはゆっくりね。徐々にいこうね。いきなりやっちゃだめよ。」初めての学年会議で彼女は僕の目を見て言った。(おれかよ。俺は冷静だって。)そして彼らの待ち構える教室にみんなで向かった。そしていきなり出会い頭に彼女は悪態ついた生徒にぶちきれた。あれには笑った。

 (自分で言っておいて。やっぱりいいわこの人)

この定年間際の老教員にとことん体をはってついていこうと思った。



彼女とチームを組む前に半年前から(ガキどもが一年の頃)僕は指導員として入っていた。暴言を言われても言い返せない講師、教員と沢山話した。

 「無視しないであげて欲しい。」

と繰り返し言った。大人はみんな笑顔すら消えていて、暗く落ち込んでいた。子供たちは自分がいじめられないように、うわべの笑いを浮かべていた。僕は大人たちにこそ、問題を感じた。でも、無理も無い。いじめ、暴力、不登校、授業妨害、普通の大人しい生徒でさえ、乱れ、荒んでいた。暴言は救いを求める叫びだった。小学生の頃から、大人に嫌われてきたんだ。だから

 「僕を嫌わないで!」

と叫んでいるんだ。一人では不安だから、みんなで反抗するしかない。そうさせたのは大人じゃないか!大人は暴言をぶつけられたら怒るのが当然なのに、我慢する。我慢しているうちに、彼らを嫌いになってしまう。だから言われたら即座に怒らないと。初めての職員会議の席で

 「戦ってください。女性なら力で勝てなくても口で言えばいいんだ。そいつの目の前に行って、詰め寄って、言葉でやりあえれば大丈夫です。相手はまだ中学生です。」と話した。彼女をはじめ、うなずいて聞いてくれる教員が沢山いた。言われっぱなしだった

弱い女性の先生も、僕と一緒に生徒に向き合いはじめた。

 「三回注意してもうるさくしたら、僕が入りますよ。」

といって、廊下で耳を澄ました。授業の後、

 「異変を感じたのか、今日は静かでした。子供たちもなかなか敏感ですね。」

と彼女は言った。笑顔だった。

 

 教員は全員パートナーだった。僕の人生にこんな未来が待ち構えていたなんて。まさか一番苦手な学校の先生達と・・・。問題が起こるたびに夜は飲みに行った。飲めない女性の先生も来るようになった。みんなで生徒の起こした事件について語り合った。冗談を言って笑った。明日もがんばろう!と乾杯した。翌日まで酒が残って赤い顔のこともあった。大人たちの中に、次第にチームワークが芽生えてきた。彼女の来る前に、いじめがあってもあまり厳しい指導をしない学年責任者だったから、僕は他の若い教員二人と一緒に10人くらいの生徒を教室に呼んで、心ある、良心のある若い教員二人が諭した。若手の教員はまだ血の気が多くて頼もしかった。一緒に子供たちに向き合って、裏では励ましあえた。

 「俺達であいつらに向き合おう」って。いじめた生徒達は呼び出されても全員へらへらしていた。だから僕は机や椅子を蹴り飛ばした。

 「卑怯者が集まっているんだ!」

憎まれ役は僕の仕事。若い教員がくそがきどもに穏やかに諭した。子供たちが黙った。それで僕は教室をそっと出た。でも、椅子が以外に硬くて、(足を捻挫するところだった。あぶないあぶない。椅子を蹴るのはもうやめよう)と密かに思った。



 今では学校の行事に足しげく通い、教員になりたいという生徒は、はじめいじめっ子の頭だった。そいつは僕が来た初日に、授業を見に入っていった僕に小声で

 「目黒帰れ」

と言った。心底むかついた。でも聞こえない振りをした。僕はまずはこいつをへこましてやろう。って思った。彼が僕にサインを出したんだ。ラブコールだ。名前を覚えてくれているじゃないか。良い奴じゃないか。僕はこの一言で、兜の緒をしめた。どこかでどうせ中学生だ。と思っていた。でも、そんな甘いものじゃない。こいつらは簡単には僕を受け入れやしない。「死ね」といわれるのは日課で、睨まれ、

「お前さえ来なければ!」

と叫ばれた。つばを吐きかけられ、胸倉を掴まれた。放縦状態でざわめく生徒全員に怒鳴りまくった。教室から飛び出し駆け回る奴を追いかけた。そんな感じで僕の指導員生活ははじまった。まずはこいつと一騎打ちだ。一番強いやつと勝負。それで体育の授業のときに、奴が弱い子の頭から校庭の砂をかけた瞬間、ぼくは持っていたファイルを校庭にたたきつけた。全員がこちらを見た。良く見ておけ!みんなの前で引っ張り出してやった。その様子を子分にしっかり見せてやることだ。校庭から校舎の裏に連れて行き、彼に

「お前はリーダーの素質があるから、これからはいじめじゃなくてみんなを導くリーダーになれ」

と言った。勝手に口からこういう言葉がでた。(てめえこのやろう!いじめっ子の最悪なやろうが!これからはおれが許さないからな!)というつもりだったのに・・。へこませてやろうと思っていたけど、目の前に立っている彼を見たら、彼をぜんぜん憎らしく

思えなかった。目の前にいるのは無垢で純粋な中学生だった。でも、そいつはそれからは僕に悪態をつくことはなくなって、よく話すようになった。僕をずいぶん助けてくれたっけ。本当はいい奴で、でもリーダーでいるためにいじめていたんだ。それに、家族のことでもつらい思いをした子だった。いじめなくなった当初、彼は周りから攻撃された。こいつを若い教員と一緒に守らないと。それで行事なんかでリーダーとして復活した。賢い子だった。



 定年間際の老指揮官は厳しい指導と、行事では生徒と一緒に楽しむことの両輪を使い分け、あるときは先陣を切って反発した生徒を叱ります。最後はかならず生徒が分かるように諭して、許すのです。集団から排除することは決してしませんでした。叱責のあと、対話し、諭し、また迎え入れてあげるのです。次第に悪ガキも叱られ方の要領をえてきたようで、潔くなった。収めどころが分かったんだ。次の日には、彼女(老指揮官)は柱の影から眺めて、笑顔にもどった生徒を見ると「よし」と言って職員室に戻ります。僕は前日の悪態を考えるとむかつきましたが、彼女の様子を見ると生徒を許す気持ちになれました。しかしまたぞろ奴らはやらかすのですが。あ、そうそう、僕だけは何ヶ月も睨まれることも多かった。押さえつける悪役ですから。彼らにもプライドがあるのだから、甘んじて受けました。彼女はだれもが難しいと感じていた生徒に対しても、その生徒のことをおそれるどころか、とてもかわいがっていた。そして暴れだすと私に

 「さあ目黒さん大人の力を見せてあげて」

と言って制圧の指令が出るのです。押さえつけて動けないからつばをかける奴もいた。でもうつぶせにおさえたり、口を押さえることはしなかった。そこまで屈辱を与えるのは不本意だ。しかし相手は中学生とはいえ体も大きくなって、なによりも、絶対に怪我をさせることは出来ません。怪我をさせれば、おのずから指揮官に責めがいきます。いや、きっと先生方は僕をかばうでしょう。

絶対に迷惑はかけたくなかった。向こうは必死で向かってきますからいかに彼らを怪我をさせることなく押さえつけられるか、それはなかなか難しかったです。道場の小学生を相手に安全な崩し方、倒し方を研究させてもらったり。その子供たちももう中学生を卒業します。一度必要以上に力が加わってしまい、本当に怪我をさせてしまいそうになって、冷や汗をかきました。それに僕だって彼らがかわいかったのです。暴言を吐かれればムカつきますが、憎いと思ったことはありません。思わぬ反撃を受けててこずることもよくありました。

 「お前は教員でもないくせに!」

と散々言われたものです。こういうときは、僕も教員だったら、と心から思い、悔しかったです。僕も教員なら、自分の責任でもっと思い切ってやれるのに・・と。このときばかりは大学の一限にある教職課程を眠いからという理由でサボったことを後悔しました。教員で無いから思い切ってやれるということはありません。逆です。もし教員の方に迷惑をかけたらどうしよう。という不安の方が強い。悪いことをする生徒を時に叱りながら、またあるときはかわいがる指揮官に、

 「いじめられている生徒の身になれ」

という批判もありました。でもかわいがることは叱ることと同じなんだ。会話の中で、大切なことを伝えつづけていたんだ。僕はよく、いじめられる子供にずっと張り付いていたこともありました。着替えの時も更衣室にいたり夏のプールの時間には観覧席にいめる悪ガキといじめられる子供が一緒にいた。これを守るのはきつかった。いじめられるから見学するなよ!と思った。それにあそこの暑いことといったら・・。彼女はよくこう言いました。

 「悪いことをする生徒を見放したら結局は弱い子供たちにしわ寄せがいく。」

問題を起こす子供を抱えることがめぐりめぐって他の生徒の生活を安定させる。彼女の言うように、ぐれている生徒もいじめはしなくなり、個人的に問題を起こすことはあっても、集団を乱そうとする者は減っていきました。しかしあるとき、暴れる生徒が小柄で

高齢である指揮官の女性教師に詰め寄ったのです。

 「てめえぶん殴るぞ!」

と言ったそのとき、さすがに焦ったものです。もし彼女に手を出せば吹っ飛んでしまいます。手を出した生徒にも救いが無くなる。しかしその緊張をよそに彼女は平然と

 「どうしてあなたに殴られなくてはいけないの?」と彼女は即座に言いました。僕はそれを聞いて、(この人はなんて当たり前のことを平気で言うんだ)とおかしくなってしまいました。暴れる生徒はあっけにとられ、

 「お前は偉そうなんだよ。」

すると彼女は

 「あなたの知らないことを教えてあげるんだから偉いわよ。」

僕(またまた、なんという普通のことを・・・。)とすっかり詰め寄る生徒を押さえつけるのも忘れるくらい、

拍子抜けです。彼は言葉を返すこともなく落ち着いてしまいました。というよりも、一瞬(ふふっと)笑ったようにも見えました。

彼も殴るつもりなどなかったのでしょう。僕と同じ気持ちになったのかもしれません。「私はあなたの先生」これは彼を受け入れているということなのです。実はこの

 「あなたの知らないことを教えてあげている」

という言葉は彼らのように荒れた状態の生徒にとっては天からの救いの言葉だったのです。沢山の悲しみと喜びを経験したプロの凄みと、やさしさを見ました。彼女は飲みに行くとよくこう言います。

 「私だって怖いのよ本当は。殴られたらすっとんじゃうからね。でも、必死でやっているのよ。」

卒業式、彼女はそこで定年退職となり、荒れていた子供たちが、花束を渡してお祝いしました。美しい光景でした。僕は直前まで揉めていたけど、そんな僕にも彼らは声をかけてくれました。その後、彼女は暴れた彼が「・・・先生」と電車の中で声をかけてきたことをたいそう嬉しそうに語っておられました。彼女の教員人生は、まさに荒れた中学を渡り歩いた人生でした。そして真剣にもう止めようと悩んだ日もありました。しかし彼女は逃げずに進みました。

 「逃げちゃだめよ。」

も口癖でした。

 「社長や総理大臣なんか育たなくたっていいんだ。普通の子供に必要な集団生活の基礎があればいいの。弱い子、賢い子、障害がある子、どんな子供でもお互いを理解して生活すること、管理するだけじゃなく、共存させ、自立させてあげること。」

誰からも尊敬される彼女は、昔、不良たちに反発を受け、周りの教員からも孤立して、本当に悩んで、泣いて、教員を辞めたいと思ったそうです。自分は弱い、と彼女は言います。一日中、東京の街を何十キロも歩いて、明日やめようかと悩んだそうです。しかし自分で「続けよう」と思い立った。翌日から、言うことを聞かなかった不良が彼女の話を聞くようになった。そして周りの教員も助けてくれるようになった。

 「不思議だった。私の変化を感じたのね。」

と彼女は語ってくれた。

 「私は自分から逃げなくて良かった。それで私の人生が変わった。」

今、彼女は「偉そうに」とよく言われることがありますが、彼女はわざとそうしていると言いました。教員の仕事は生徒を指導するという公務だから、その役に徹しているのです。でも本当はそこぬけに明るく、チャーミングなんです。彼女は厳しいしつけだけが得意なのではありません。スキー教室、合唱祭、遠足、修学旅行、こういうときこそ、彼女は子供たちに考えさせ、集団とは何かを問いかけながら、楽しくて、うきうきするような楽しさと充実感を生み出しました。厳しい指導以上に、こういう仲間との協力によって生み出される楽しさのほうが重要とさえいえるかもしれません。実はこれが出来る教員はなかなかいません。子供のように無邪気に楽しめる遊び心、感性。実行に移すための計画を練る素養と技術も問われます。教育のための教育ではなく、教員の側にも芸術的な感受性、行動力、知識力がなければ行事を成功に導くことはできず、中途半端なものになるでしょう。彼女は仕事は仕事、プライベートでは仕事のことは忘れて、徹底的に遊ぶ方でした。普段憎まれ役の僕も、子供たちの部屋に行って怖い話をしました。ホールを借りて、夜、二時間も怪談をしたこともあった。彼らはずっと黙って聞いていました。



 ここに一人のプロがいて、ここにひとつの夢がある。



 彼女は夢を求め続けた教師でした。子供たちに集団生活の楽しさとその意味、守るべきことを指導することが彼女の夢でした。彼女から多くのことを学んだのは、生徒達よりも僕自身であったのだと思います。僕にとっては悪がきどもも学友でした。




短歌
自己愛にひたる他人もゆるしたい 自己憐憫も憐憫したい
(歌人 枡野浩一)

「憐憫」(れんびん)とは(かわいそうに思う気持ち・あわれみの気持ち)の意。「自己憐憫」はそれを自分に向けること。「自己憐憫」という言葉はぼく自身身につまされる響きがある。

2012年の秋に書いた「憐憫」につながる文章を引用してみる。憐れみと共感に涙を流しながら絵を描いた日のこと。

以下引用


(2012年作 目黒雅也)


「西荻の怪老人」(乱歩風、のつもり)

このお話は、10年来の私の西荻における秘蔵の話です。初めてこのことをお話しすることになります。このお話をする頃、すでに私は・・、いや、この世に健在であることでしょう。

その前に、前置きをひとつ。
日大芸術学部時代、唯一教授から褒められた課題があって、それは、おのおの有名デザイナアや芸術家をあてがわれて、その人物について調べるという課題で、皆が本を調べている中、唯一私だけが本人の事務所に直談判してたずねたということに対して、褒められたことがありました。それはやはり作品についてではなく、その行動に対してでしかなかったのですが、しかし嬉しかったことには違いありません。すでに本人は他界しており、事務所の若手のデザイナアの方と会い、その後数年間交友させていただいたのでした。他界されたデザイナアは日本を代表する一人であった「山城隆一」さんでした。山城隆一さんの有名な言葉に「デザインに悲しみは盛れないか」があります。デザインというものは、肯定的なものであり、悲観というようなマイナスなイメージを望まれることはなく、しかし山城さんのアーティストとしての側面が、この言葉を言わしめたのかもしれない、とその頃私は思いました。このイラストレーションは、あるいは私が「悲しみ」をもって描いた挿絵であるのかもしれません。話は過去に遡ります。
初めてその人を見たのは私が学生の頃、10年以上前のことです。必ず一年に数回は見かける老人がいました。その老人は、西荻窪、荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺、ふと気づくと現れてすれ違う老人でした。大通りではなく、わき道や、住宅地で、あまり人がいないところに、ヒョイと現れるのです。昔、ダンスクラブの帰り、または深酒をしておぼつかない足取りの帰り道、女性と一緒の帰り道、または仕事仲間の本田との帰り道、道場の帰り道。いつも深夜か朝方でした。その老人は、忘れた頃に突然バアと現れてすれ違います。一ヶ月後に見ることもあれば、1年ぶりということもあります。不謹慎ではありますが、「まだ生きていらっしゃったのか」と思ってしまうのです。
なぜ、その老人をいつも覚えているのか。それは、彼が、ずっと、いつも首を下に垂直にグニャリとまげて(まがっている、というべきか)真下を向いて歩いているからです。背は高く、いつも肩掛けかばんをもっています。そしてかなりゆっくりとした足取りで、体調が悪いのか、酔っ払っているのか、と思うほどノロマ(失礼)なのです。目は開いているのか閉じているのか分からない。いつも夜だから服の色もグレーにしか見えない。しかしボロではない。もちろん、こちらを認識しているとは思えないし、他の人間に一切の興味もない、という風なのです。社会にまったく興味を示していないかのような、怪老人なのです。私は彼を本当に10年以上前から見ているのです。ずっと、はじめから老人であることは間違いないのです。老人のことを私しか見えていない妖精とか仙人とかいうような、幻の存在なのかもしれないとすら思ったことがあるほどです。世捨人なのか逆によほどの富豪か作家先生なのだろうか。中央線に住むどの友人に話してもかの老人のことを知るものはありません。しかし彼は、紛れもなく、生きていました。生活していたのです。
今日、私はそれを涙なくしては描くことができませんでした。悲しくて、かわいそうで、いや、それは自分のエゴイズムであって、老人はそういう「生き方」を自ら選んだのかもしれないのですが。老人は、今夜、生活にとって不必要とされたものが入っている大きな鉄の箱(ごみ箱とは言いたくない)に向かって、一心不乱に(なにか)を探していたのです。そのときの動きの早いことといったらありません。老人は10年間見た中で最も迅速な動きを示していたのです。もしかしたら老人は、ずっと下を向いて生きていて、拾い物を求めて生きてきたのかもしれない。しかしそれが老人の夢の末のことならば、私はそれも含めて老人への敬意を払うべきだという結論にいたるのでした。老人と同じように、私もずっと何かを探して歩いていくのですから。

(一部修正 2012年10月 引用おわり)

引用の文章は老人に対する「憐憫」の気持ちで書いた。今読み返してみると「怪老人」に対しての憐憫は同時に生活が苦しく作品が認められない当時の自分に対しての「自己憐憫」の投影そのものだった。素早い動きでゴミを漁るその姿を朝方の街中に見た時、同志を見るような気持ちと憐れむ気持ちの入り混じった涙を流しながら家へ帰りあの絵を描いた。
年齢が20代後半にさしかかろうという頃、ぼくはふてくされた末の(自己愛)や(自己憐憫)の塊のような自分が嫌いで仕方がなくてイラストレーションをしばらくの間ほとんど描かなくなってしまった時期があった。今描いていられるのはそれらが無くなったのではなく「許せる」ようになったからである。だからもしも醜悪な「自己憐憫」や「自己愛」が山城隆一氏の言う「悲しみ」の一種であるならば、これからもぼくはイラストレーションにひと匙の悲しみを盛るのかもしれない。気づかれぬよう隠し味のように。許してもらえる程度に。2012年のあの姿を最後に以来老人を見ることは無い。一体彼はどういう人生を歩んでいたのだろうか。








子供たちと出版した絵本が仕上がりました。素晴らしい試みに関わらせて頂き地域、学校へ感謝。























おわり


夏から制作していた小、中学生による絵本制作プロジェクト三作目がようやく出版(市販はなく地域に配布)。地域のお寺や神社に伝わる話からストーリーを考え、出版まで行う。今年は学校の作文担当者が変わり不慣れなため子供たちのバラバラな意見を詰め込み過ぎ話がかなり広がって壮大なファンタジカルアドベンチャーになりかけたので話を整理し10見開きに抑えるため目黒の作文介入が余儀なくされた。話をバッサリ切り唖然とされたが仕方がない。それでも話や登場人物のネーミングも凝りすぎな気もするが、辻褄を合わせなんとか形になった。

作画はたったの3日で5時間しかないためあらかじめシーンのラフ案を考えて子供たちに分担した。草や木、模様や風、渦、川の流れや生き物、登場人物、沢山出てくる狐は大人も子供も全員で描いた。さながら「料理の鉄人」のようにその場で分担しながら描かせる。目黒は切り抜いた絵を組み合わせ自然になるよう背景やマチエールを塗った以外は一切描いていない。

聞くところによると重要な絵を担当させた子供の中には普段は友達とトラブルになりがちな難しい子が何人かいたそうだ。時間がないのでプロさながらに細かい指示を出したがそんな子供はむしろ集中して色々語りながら絵を描いてくれる。仕事を終えると満足げな様子で単身引き上げていく。言われてみれば徒党をなしたり他の子と相談したりしない。自分も含めて少々エキセントリックな方が一人仕事が向いているのかもしれない。アップの少年の絵はとくに漫画やアニメ、美術的デッサンに影響されていない無垢な素晴らしい絵だ。お稲荷さんの絵も幼い子供を選んだりした。沢山の狐は大人も描いていて皆それぞれ違う。絵はその人にしか描けない絵でさえあればいいと思う。先生方にもあまり手を出さずアドバイスも最低限に留めて頂いたが、三年目なのでかなり浸透してきているようで大人も皆気がつけば作画に夢中になっていて微笑ましい。普段不器用であまり見せ場がないタイプの子供も毎年楽しみにしているそうなので続くといいけれど。

素晴らしい試みに関わらせて頂き地域、学校へ感謝。






もう十数年前の話。ある男性のイラストレーターと友人になった。年は僅かに上。彼は「また安酒飲んで話しましょう」という風に(安酒)という言葉をよく使うがぼくの方では彼と酒を飲むのは楽しかったから少し心外だった。酒は金額ではなく誰と飲むか何を話すかで「いい酒」にも「くだらない酒」にもなる。

あるとき二人で入ったBARの隣の席で綺麗な女性が二人で飲んでいた。ちょうどイラストレーター氏がなかなか女性とうまくいかないというような話をしていて、隣でも恋愛話が聞こえてきたので声をかけた。すると思いのほか話は弾み後日飲み会を開くことになった。彼は先に帰ったが黙って女性とぼくの分まで会計をしていた。彼はお金がないからと誘いを断ることもしばしばだったのに。飲み会の日程も決まったある日、ぼくは昼に喫茶店に行った。すると聞いたことのある声がする。なんと後日飲み会をする女性の一人とイラストレーターが食事をしている。見なかったことにしたいが隣の席だから思い切って声をかけた。女性は気まずそうだった。女性に惚れていた訳ではないがこういう筋の通らない(特に男友達の)行動は許せない。腹立たしかったがグッとこらえて予定通り飲み会は行なわれた。

ぼくは彼が対人コミュニケーションの問題を抱えているのを知っていたから前述の一件に関しては諭すように説明した。内容は(仲良くなるのはいいが、まずは初めに約束した飲み会でもっとお互いのことが分かってからそれぞれ個別に会えばいいし、(目黒が)声をかけて飲み会をセッティングしているのだから黙って二人で先行して会うのは失礼なことだよ)と。以来彼は誘っても飲みには来なくなってしまった。ぼくたちはよく自分の作品を見せ合っていたが彼は仕事向けの明るいイラストレーションと昔から描いているオリジナルのイラストレーションのふた通りを描いていた。オリジナルだけではなかなか仕事にならないからと語っていたが、ぼくは寂しさと暗さも漂うオリジナルのほうがずっといい彼にしか描けない絵だと思った。彼は少年時代精神を病み寂しい牢屋のような部屋に入れられていた話をよくしてくれた。だからこそいい絵を描けるのだろうと尊敬している。いつか彼とばったり道で会い、結婚したと聞いた。今は幸せにやっているだろうか。

「栄養と料理」誌のイラストレーション原稿は最近の群集画とは違いテキスト部分まで空間を生かして描けるのも楽しい。次々号までアイデアが出来ていて仕事上今日は春のつもりで描いています。








(現在の仕事 栄養と料理 2月号より)


(現在の仕事机)


(西荻窪時代の仕事机2000年〜2013年)

どうしてイラストレーターになったか?と問われることがある。答えは
『「あの人に伝えたい」と強く念じて描いたとき、イラストレーターを志す道の第一歩を踏み出しました』というと少しキザったらしいが綺麗に言うとだいたいそんなところだ。大学でイラストレーションをご教示頂いた安西水丸先生は恋愛相談への答えとして「とにかく今は(あの人に)花束を贈るよりも自分の(絵を描く)才能を磨きなさい」と答えられた。長い月日を経て(あの人)は別の人にかわり、そのまた違う人に移り変わってもその言葉がいつまでもイラストレーターとしてのぼくの心の支えになった。見方によれば絵を描く動機は不純なのかもしれない。






(5歳頃の絵)

三年前に知り合い、最近密にお仕事でも関わらせていただいている歌人の枡野浩一さんは中村うさぎさんとの「ゆさぶりおしゃべり」というイベントで客からの(生まれ変わるなら次は男女どちらがいいですか?)という質問に対して「(もう一度)枡野浩一でいい、生まれ変わってはじめから(色々あった辛いことを)やり直すのは面倒なのでこのままがいい」というように答えた。観客(自分も含めて)も枡野さんのこれまでの(離婚や論争、トラブルの話が絶えない)波乱な人生を知っているし、性格的にも女性的な一面もあって「次は女性に生まれてみたい」と答えるのかと期待していたから意外であったかもしれないが、ぼくはやはり短歌や作文の突出した(伝える)才能には代えがたいものがあるのだろうと納得した。また強烈に(伝えたいことや伝えたくとも伝わらないこと)がある人生は辛くとも幸福なことなのだと思った。






(5.6歳頃の絵)

(短歌)
殺したいやつがいるのでしばらくは目標のある人生である
(枡野浩一)
の「殺したい」は過激な言葉ではあるが(強烈に)「伝えたい」に置き換えられるのではないかと思う。短歌という制約の中では「殺したい」にすることで限りなく読み手の想像が広がる。イラストレーションにおける「余白」に似ているかもしれない。
ある失恋のとき、相手から「私はほんのすこしの人でも自分の作品が伝わればいいと思っているから、私たちは違いますね。」と言われふられた。そのときに「ぼくはみんなに自分の作品を見てもらいたいんだ」と強がりを言った。本当は(みんなに自分の作品を見てもらいたいけど、君に見てもらえれば一番嬉しい)と本心を言えば良かったのに。あの頃の不器用な自分の強がりも今の絵に込められたらと思って描いている。今でも決して器用とは言えないが、(みんなに伝わるように)と気負うよりも(誰かに伝わる)ことの喜びがわかり始めたことが進歩か。









(大学時代卒業制作の一部)

(短歌)
ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいに よい人生を
(枡野浩一 )
はとても優しい短歌だが、生涯に渡り誰にも気付かれることなく素晴らしい長大な絵物語を描き続け、「自分が死んだら全ての作品を焼き尽くして欲しい」という希望も守られず広く世界に知れ渡った尊敬すべきヘンリー・ダーガーは果たしてハッピーエンドだったのだろうか。(自分の作品をみんなに見てもらいたい)と言ったぼくにはうかがい知れない。安西水丸先生がある特殊な性癖をもつ学生を指して「彼は自分の描いた絵に恋をしているんだ。大したものだ」と言っていた。ダーガーもそういうことだったのかもしれない。ぼくはまだまだその域には程遠い入り口にいる。

おわり











#枡目組 歌人枡野浩一 イラストレーター目黒雅也のコンビ




今年は申年。猿、というと中、高の剣道部の夏合宿を思い出さざるを得ない。中学生から高校生まで一貫して夏合宿を張ったのは長野県竜王高原だ。当時東京からバスで4、5時間。スキー場のホテルに宿を取り、山道を10分登った上に体育館があった。6泊7日、日程が終わり東京に戻ると来年の合宿を想像して吐きそうになるくらい嫌だった。初日から先生達はOBとの宴会で夜の見回りはほとんどなく、生徒側は高校生の夜遊び(つまり宴会)のお供や使い走りする。寝たければ寝られるのだがうるさくて寝られず午前2時とか3時頃にようやく気を失うように寝る。すぐに6時に叩き起こされ朝の運動。体操をして急勾配の夏の草だらけのゲレンデを息を切らして登ると運動場がある。駆け上がるとすでに人影があり昨晩OBと飲んでいたはずの先生(当時67歳)のツルツル頭が仁王立ちである。

朝の運動が終わり午前の稽古三時間午後三時間夜形稽古一時間その後の夜の稽古(先輩の宴会)で深夜まで。ぼくはまだいいほうで二時か三時で寝られるが先輩に気に入られた同期たちは朝方まで付き合っていたのでは。稽古でも中学生は途中まで高校生と同じ列に入れられ打ち込みをさせられ、端のほうにはOBが並んでいるエリアがありそこにハマると交互ではなく打ち込み回数が倍になる。高校生の打ち込みも中1にも加減がないから小手を打たれると腕は紫色に腫れた。

しかしそんな合宿でも午後の半日休めるらしい中日(なかび)がある。まだ幼い中1のぼくは中日が長野地獄谷温泉「猿山」への遠足なので猿を見るのを楽しみにしていた。この休息のはずの猿山が実は30分ほどの登山なのだ。登頂し地獄谷温泉につくと先生は奥様へのお土産を手早く買いただちに下山。これが中日の真相で結局稽古とさほど変わらないくらい辛かった。しかしある年先輩数名が山登りをせずこっそりふもとの喫茶店に隠れた事がばれて、彼らは木刀でしばかれて以来猿山登山の中日はなくなって合宿は5泊になった。先生は中日は無くしてやるからな!とご立腹だったが内心皆喜んだ。先輩のおかげである。ただもっとゆっくり猿を見たかった。ちなみに合宿所には母校の他の部活も合宿をしていて、その中のアメフト部には一つ下の学年に芸人のオードリーの二人がいた。


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▲instaglum 1998年〜のほぼ全ての作品公開

▲あかね書房より絵本「あれたべたい」2016年6月刊行 ぶん 枡野浩一(歌人) え 目黒雅也
●剣道六段(新渡戸文化学園剣道講師)
●日大芸術学部にて安西水丸氏に師事
●日大芸術学部学部奨励賞
●イラストレーションヨコハマコンペ
1999、2000入選
●SAPPORO BEER TOKIO HOT 100 AWARD
ポスターデザイングランプリ
●誌とファンタジー公募入選
●13回TIS公募入選
●小学館文庫「洞窟オジさん」装丁

☆主な取引先☆
リットーミュージック/あかね書房/小学館/ソニーミュージック/中央公論社/実業之日本社/マキノ出版/NHK/JR東日本/ホリプロ/シンコミュージック/大京/大泉村/エイ出版社/ソニーマガジンズ/プレアデスセンター/ニューズ出版/ビレッジレス ナレッジフォア/日本デキシー/日経BP/兵庫県満願寺/新渡戸文化学園/杉並区教育委員会/ハクデザイン/森田デザインプロダクション/ノーブルウェブ/新潮社/山と渓谷社/エディトルームカノン/マックスライン/ など

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